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いちばん正直な『スーサイド・スクワッド』レビュー 観ない理由の払拭と観るべき理由の解説

いよいよ9月10日、映画『スーサイド・スクワッド』が日本国内で封切りになった。
公開までの間、そして全世界で公開されてから、当サイトTHE RIVERではこの作品についての様々な情報をお届けしてきたつもりだ。

上記記事にまとめられているように、このサイトでは、ファンが大好きなポップカルチャーについて自分の気持ちで実直に語り、共有できるファンメディアとして、『スーサイド・スクワッド』に関する期待高まるニュースのみならず、不都合な情報も隠さずにお伝えしてきた。ようやく日本公開、鑑賞を終えられた今、良い物は良いと良い、悪いものは悪いと言えるサイトとして、そしていちファンとしてスーサイド・スクワッドのレビューを正直に書きたい。

公開初日に鑑賞した今現在の気持ちを率直に述べよう。最高すぎて安堵し、途中でちょっと泣けた。

なぜ、スーサイド・スクワッドは素晴らしい映画だったのか。その魅力をネタバレなしで評価する前に、本作にまつわる不安要素をひとつずつ取り払うところから始めたい。
この記事ではまず、あなたの「スーサイド・スクワッドを”観ない”理由」を払拭する。そのうえで、筆者が鑑賞して感じた「スーサイド・スクワッドを”観るべき”理由」について語りたいと思う。この記事を読み終えるころ、きっとその足は映画館に向かって歩き始めているはずだ。

スーサイド・スクワッドを”観ない”その理由は間違いだ

アメコミ原作とか、前作・関連作の知識がないと楽しめないんでしょ?

全くそんなことはない。そして、それがこのスーサイド・スクワッドの素晴らしい点だ。
確かに今作は、スーパーマン誕生を描いた『マン・オブ・スティール』と、その後の『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』と地続きになった世界を描いている。そして『バットマン vs スーパーマン』は『マン・オブ・スティール』を鑑賞していないと「何のことかわからない」状態に陥る不完全な内容だった。だが、スーサイド・スクワッドはそんな心配は御無用。前二作を鑑賞していないと困るようなシーンは特に無い。
一応、”メタヒューマン”というDCEUの用語が出てきたり、『バットマンvsスーパーマン』で起こった出来事を言及する場面もあったりするわけだが、それはあくまでも一要素であって、これが分からないとストーリー構造が破綻するといったものではない。スーサイド・スクワッドはDCEU内のいち作品でありながら、ほとんど独立した世界観を持っている。

また、詳しくは後述したいが、個性豊かな登場キャラクターのオリジンもしっかり描いてくれている。原作をよく知るファンなら、コミックとの相違点などを見出して楽しむ事もできようが、こちらもあくまでプラスアルファの楽しみ方。コミックの前知識を前提にいきなり登場させて、原作に馴染みのない観客を置いてけぼりにするような展開は一切ない。だから、アメコミ原作を知らないとか、最近のアメコミ映画はちゃんと観てないから…という心配は一切不要である事を胸を張って保証したい。

「脚本に難あり」みたいな噂を聞いたよ?

そうは思わない。
今作の脚本は、鑑賞にあたって致命的にわかりにくかったり破綻しているような印象はない。もちろん細かいアラ探しやツッコミをしようとすればいくらでも出来てしまうだろうが、そもそも万人に受け入れられる完璧な脚本は存在しがたい。ほぼ全員が初登場となるキャラクター一人ひとりの出自や彼らの葛藤、”タスクフォースX”の背景や実行に至るまでの必然性、世界に迫る脅威とそれに立ち向かうスーサイドスクワッドのアクション、すべてバランスよく描かれていたように思う。当然ながら100点だったかと尋ねられて、「そうだ」と言いたいわけではない。ただ、決して「難あり」というものではなかった。

ジョーカーの出番が大量カットされてて「予告編詐欺」なんでしょ?

本作における最も不穏な前情報といえば、ジャレッド・レト演じるジョーカーの撮影シーンのほとんどがカットされていた、というものに間違いない。
だが、実際に鑑賞したからこそ言いたい。全くそんなことはない。

上記記事に書いたように、全身全霊を込めて演じたシーンの多くをカットされたジャレッド・レトは悲嘆し、観客は「ジョーカーを楽しみに映画を観に行ったのに、予告編と違いすぎる」として訴訟の動きも見せた。ワーナーとDCに怒りの声を挙げたスコットランド在住のファンはこう述べている。

「『スーサイド・スクワッド』の予告編にはお金を払いたくなるようなジョーカーのシーンが含まれていました。だから私は、ワーナーとDCが宣伝に使っていたシーンのために映画を観に行ったんです。でもそのシーンは映画にはありませんでした。予告にあったシーンを観るべくロンドンまで300マイル運転したにもかかわらず、ワーナーとDCはそのシーンを私に観せなかったのです」

あなたがスーサイド・スクワッドをその目と心で鑑賞すれば、この怒りのコメントは言いがかりである事がよくわかるだろう。
確かに編集の段階で、撮影したにも関わらずお蔵入りになった映像が存在するのかもしれない。だがそれはあくまでも「編集」の工程における必要不可欠な作業であり、映画のバランスを成立させるためにやらなくてはならないものだったに違いない。
ジョーカーはむしろ絶妙な分量で配合されていた。それはまさに、54枚の中にわずか2枚だけ紛れ込みながらもひと度テーブルに開けられれば番狂わせをも起こしうるトランプのJOKERのように、ここぞという場面で”孤高の存在”的に登場する。多すぎる事はないし、ましてや少なすぎるなんて事も一切ない。一体スコットランドの彼は何を根拠に「予告編詐欺だ」と叫んでいるのかがわからないくらいだ。

DC映画って暗いし眠いじゃん?今回もそんな感じなんじゃないの?

全くそんなことはない。
DC映画と必ず比較対象に挙げられるマーベルは、『アベンジャーズ』シリーズではキャラクター同士のギャグ的な絡みも展開してみたり、『キャプテン・アメリカ:シビルウォー』では色とりどりのコスチュームに身を包んだヒーローたちが大乱闘する戦闘シーンを、すべて昼間に限定することでストーリーの持つ重さを中和させたりと、あくまで「爽やかさ」を基調としたエンターテイメント街道をひた走っている。
ではDC映画はこれまでどうだったかというと、スーパーヒーロー映画を大人の鑑賞に耐えうる哲学作品にまで昇華させたクリストファー・ノーラン監督『ダークナイト』トリロジーや、原作コミックのダークな世界観をビジュアライズさせたザック・スナイダー監督の『ウォッチメン』や『バットマンvsスーパーマン』をはじめ、とにかく暗く、重苦しく、仰々しい作品であった事はよく知られた通りだ。
しかし、スーサイド・スクワッドはそのどちらにも属さない。つまり、ギャグ要素もスパイスとして持った「ザ・アメリカ」的ダイナミズムでもなければ、ダークでシリアス、ストイックな「いわゆるDC映画感」もない。スーサイド・スクワッドはスーサイド・スクワッドとして、独自の作品世界観を作り上げている。では、どんな世界観だったのか?これについては後ほど述べるとしよう。

さて、ここまでで、「スーサイド・スクワッドを”観ない”理由」が払拭されただろうか。先入観をかなぐり捨て、フラットな状態になったところで、「スーサイド・スクワッドを”観るべき”理由」についてお伝えしよう。一体この映画のどこが見どころなのか?個人的に感じたことをひとつずつ紹介したい。

スーサイド・スクワッドを観るべき理由

『オールスター集合感』成立をたった一作でやってのけた

初めて『アベンジャーズ』を観たときの衝撃を覚えているだろうか。
アイアンマン、キャプテン・アメリカ、ソーにハルク…それぞれのキャラクターのオリジンと世界観確立を、それぞれの単独作品で丁寧に築き上げたからこそ、彼らがひとつの画面に同時に居合わせている異常感・お祭り感にひどく興奮したものだ。
そしてDCEU前作『バットマンvsスーパーマン』も、あの2大ヒーローがついに映像で禁断の顔合わせを果たしたというすさまじいインパクトを放っていた。
今回、スーサイド・スクワッドはその『オールスター集合感』をたった一作でやってのけていたように思う。それは、各キャラクターを僅かな時間で効果的に紹介できていたからだ。その理由は2つある。

【1】同じ”悪”でありながら、”悪”のタイプとキャラが一切被っていない

ご存知、本作は”悪人が集められたチーム”を描く。メンバーは全員”悪人”としてひとくくりにされながらも、実は誰一人として”悪”のタイプが被っていない。だからこそ、彼らの“混ぜるな危険”感がいっそう引き立てられるのだ。

  • デッドショット:収入のため、娘のため仕方なく悪事をこなす
  • ハーレイ・クイン:倫理観が破綻した純粋悪(ジョーカーのコピー)
  • エル・ディアブロ:理性で感情を制御できず事件を起こす。現在は懺悔している。
  • キャプテン・ブーメラン:利己主義の小悪党
  • キラー・クロック:差別の目によって創り上げられた後天的悪

同じ”悪”のフィールドに身を置きながら、そのベクトルはそれぞれ全く異なる方向に伸びている。だからこそ一人ひとりが強烈な個性を放ち、たとえ原作コミックの細かいことを知らないとしてもそれぞれの過去や境遇についてあれこれ思考を巡らされる。そんな粒立ちの良い悪たちが一画面に収まって放つ『集合』感はたまらない。

【2】音楽によって各キャラクターの場面をうまく強調している

スーサイド・スクワッドが過去のDC映画やMCU作品と明らかに異彩を放っている理由のひとつが、音楽の扱いの巧みさだ。現実世界のロック、ソウル、ヒップホップ、ファンク、EDMなどをふんだんに用いて、それぞれのキャラクターの登場シーンを色鮮やかに彩っている。マーベルの『デッドプール』や『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』でも実存の音楽を挿入歌としてうまく使っていたが、あんな感じと思ってもらえればいい。
音楽によって各キャラクターの個性が強調され、それがチームが集合した時の『オールスター感』のバックボーンをより強固なものにしている。

これが、先述した“スーサイド・スクワッド独自の世界観確立”に一役買っている。使用する音楽はAC/DCやローリング・ストーンズなどのオールドスクール系から、現行ミュージック・シーンで流行りのチャラめの曲までガンガン流れる。とにかくスタイリッシュで都会的なのだ。明らかに他のスーパーヒーロー映画とは空気感が違う事は、鑑賞してもらえれば直感できるはず。

個人的にニヤリとさせられたのは、ジョーカーとハーレイ・クインが登場するナイトクラブのシーンで、例のリック・ロス&スクリレックスの『パープル・ランボルギーニ』がバックでガンガンに流れていたところ。現役のクラブDJとしてバリバリに活躍するスクリレックスが提供した楽曲だけあって、あのクラブで流れている時の説得力、ハマり具合が段違いだ。

流れるような展開

スーサイド・スクワッドは2時間10分、そこそこ長時間の作品だが、ダレるような瞬間は一切無かったように思う。それは何故かと言うと、展開ごとの章立てや区切りが上手だったからだ。
そこで、今作をおよそ3つのパートに分けて、それぞれの魅力を紹介したい。

前半:オリジン紹介

物語の前半では、デッドショット、ハーレイ・クイン、ジョーカーら主要キャラクターのオリジンが描かれる。彼らはDCEUとして映画初登場となるわけだから、その成り立ちや人間性が説明されるわけだが、これが素晴らしくスムーズに進む。この描き方も、先述した『スーサイド・スクワッド独自の世界観』を確立できている要因になっている。

本作の予告編をご覧になったことがあるだろうか、クイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』のサウンドに乗せて、小気味よく展開するあの映像だ。前半の雰囲気は、この予告編の放つスピード感と歯切れの良さに嘘偽り・誇張はない。テンポよく、スタイリッシュに、それでいて過不足なく各キャラクターが次々登場し、やがて勢揃いする快感たるや。

中盤:倫理観への問い

今作は『マン・オブ・スティール』と『バットマンvsスーパーマン』と世界観を共有しているので、この世界の人間たちはスーパーマンが登場し、彼がメトロポリタンで繰り広げた将軍ゾッドとの決戦による悲劇を経験している。『スーパーマン不要説』は前作から引き継いでおり、ゆえに政府は「もしもスーパーマンが人類を襲うような事があったら」を疑っている。つまり、スーパーマンはたまたま道徳心を持った善のヒーローだったが、「次のスーパーマン」が必ずしもそうであるとは限らない。スーパーマンのような”メタヒューマン”が人類に対する脅威として猛威をふるわないという保証などどこにもないのだ。

スーサイド・スクワッドことタスク・フォースX計画をアマンダ・ウォーラーが実行させたい思惑はそこにある。檻の外に放つだけでも多大なリスクを伴う悪人どもを、来たる脅威にぶつける事で災害を避けようというのだ。

ここには現代社会に通ずる倫理観への問いが幾重にも隠されている、とも捉える事ができる。
まだ発生していない脅威を予定して、こちらも同様に脅威を自衛することは道徳的に正しいと言えるのか。

さらにスーサイド・スクワッドは、過去のスーパーヒーロー映画とは異なる新たな哲学テーマを掲げている。
『ダークナイト』では正義と悪の表裏一体性を描いた。
『キャプテン・アメリカ:シビルウォー』と『バットマンvsスーパーマン』は正義の多様性、つまり「あなたにとっての正義は私にとっての脅威かもしれない」というテーマを描いた。
そして『スーサイド・スクワッド』は、悪の多様性、つまり上文と逆説的に「あなたにとっての脅威は私にとっての正義かもしれない」というテーマを描いている。

たとえばアナキン・スカイウォーカーが本人の意図に反する形で結果的にダース・ベイダーというシス卿になったように、スーサイド・スクワッドに登場するキャラクターも不本意的に悪人という社会属性に身を置いている。その事がもっとも描かれているのがウィル・スミス演じるデッドショットだ。
彼は幼い娘を持ち、唯一の家族のために仕事として雇われヒットマンとして暮らしている。一般的な父親と全く同じように、娘を愛しているし、良い暮らしをさせてたいと願っている。彼は「俺がただのクズ野郎じゃないことを証明したい」という個人使命を抱えている。その姿は『ロッキー』のロッキー・バルボアをも彷彿とさせる。そんな彼のもとに、制裁人としてのヴィジランテ、バットマンが立ちふさがるのだ。

「スーサイド・スクワッドのバットマンは悪人目線で描かれており、震えるほど恐ろしい」と語られていたように、バットマンこそ、デッドショットが彼の小さな世界の中で確立しようとする平和な暮らしを一瞬で破壊する脅威のように描かれている。デッドショットは確かに暗殺者だが、それは需要と供給というエコシステムに組み込まれているだけであり、決して本人に悪意はない。彼の働きによって、反社会勢力の一部が静粛される事もあると思えば、必ずしも悪人の一言では片付けられないのではと考えさせられる。
ウィル・スミス演じるデッドショットは、まるで『LEON』での、マチルダのために奔走するレオンのような人間臭さも浮き彫りにする。正義のヒーロー、バットマンはそれをぶち壊しに入ってくるのだ。

デヴィッド・エアー監督は今作を”悪と邪悪について”の映画だと語っている。かつて実在したアメリカ史最大の犯罪王アル・カポネが自身に悪の自覚が一切なかったように、スーサイド・スクワッドの悪人たちも独自の倫理観に従って行動しているに過ぎない。悪とは何か。そして本当の悪…、デヴィッド・エアー監督が言う所の“邪悪”とはどういう意味なのか。中盤ではそんな事を考えながら鑑賞すると良いかもしれない。

終盤:個性が爆発するアクションシーン

スーサイド・スクワッドの批判意見の中には、「『アベンジャーズ』など他のスーパーヒーロー映画の壮大なクライマックス・アクションシーンに比べて見劣りする」というものがあったが、筆者はこれまで述べたように「スーサイド・スクワッドにはスーサイド・スクワッドの世界観が確立できている」と感じ、完全に没入しながら鑑賞したので、他のスーパーヒーロー映画のアクションシーンがどうだ、という事をむしろ完全に忘れさせられていた。それはなぜかといえば、キャラの個性がアクションシーンでこそ爆発していたからだ。

ハーレイ・クインは前評判どおりのポップでクレイジーさをそのまま戦場に持ち込み、ベースボール・バットで敵をボッコボコにする。パワータイプのキラー・クロックは豪腕振り回し、エル・ディアブロは自らの力を扱う事に罪悪感を感じているのでひとり悲観的にメンバーを隅から眺めながら、ここぞという時にその力を解放する瞬間がたまらない。「抜け」要素のセコキャラ、キャプテン・ブーメランは、予告編でプシュっと缶ビールを空けるシーンそのままに「俺はゴメンだぜ」な感じであたふたしたり、かと思えばたまにちゃんと活躍してるギャップがカッコよかったり。

そしてやはり、結局カッコいいのはウィル・スミス演じるデッドショットだ。射撃の名手である彼は狙った獲物は百発百中。自らカスタムした銃器や特殊なスコープを駆使して、長年蓄積したであろう己の戦闘美学の上に立ち、撃って撃って撃ちまくる。
チームと共に行動するリック・フラッグ大佐率いる米軍兵士たちも、心身ともに厳しい訓練を耐えぬいたエリート兵だろう。だがデッドショットは孤高のヒットマンとして、お前ら組織で飼われた人間なんて大したことねぇ、とでも言いたげに我先に最前線に躍り出て敵の進撃を果敢に食い止めるのだ。
結局は自分の美学を強く持った人間が1番強い。男として、デッドショットの活躍シーンに熱くならないはずがないのである。

カタナ大活躍!日本人不遇の時代ももう終わりだ

最後に見どころとして紹介したいのが、福原かれん演じるタツ・ヤマシロことカタナの大活躍ぶりだ。日本人キャラを、日本人キャラが、日本語で演じる。そんな当たり前のことに、ちょっと感動しています。熱海後楽園ホテル。

これまでのハリウッド映画といえば、そもそも日本人のキャラクターの存在自体が少なかった上、たまに登場させてもらえたと思っても中華系の役者がカタゴトの日本語で演じるのが常だった。しかしスーサイド・スクワッドのカタナは、ちゃんと日本人女優である福原かれんがネイティブジャパニーズで演じてくれているのだ。

カタナは、斬った者の魂を封印してしまう妖刀の使い手として、リック・フラッグ大佐の護衛を務める。銃をガンガンぶっ放したり、バットを振り回したり、怪力で暴れたり火を吹いたりする他のキャラクターに混じって、カタナは日本刀で敵に斬りかかる。しかも、その度、「ハーッ!」とか「ヤァーッ!」とか、日本のアニメっぽく叫ぶのだ。これが本当に良い意味で目立っていて、大乱闘スマッシュブラザーズ感を演出してくれている。

しかも活躍シーンもけっこう多い。決してチョイ役ではなくスーサイド・スクワッドの立派な一員として、時に画面センターで他のメンバーを携えて闊歩するのだ。日本人による日本人キャラクターがスーパーヒーロー映画でここまで大々的にフィーチャーされたというのが、単純に嬉しくてたまらない。ベイマックス(BIG HERO 6)のような『日本を舞台にした』作品も良いが、あのメンツの中に日本人が肩を並べてスクリーンで大活躍しているという事実は非常に感慨深いものがある。ハリウッドにおける日本人不遇の氷はいよいよ本当に溶け始めている。

https://theriver.jp/karen-hukuhara/

まとめ

以上、映画スーサイド・スクワッドの『”観ない”理由』の否定と、『”観るべき”理由』の解説を行った。
公開直後の日本人ファンの感想をみると、個人的には意外にも賛否両論、なかでも否定的なものが強いように感じられる。受け手によって様々な意見があるが、是非ご自分でその真意を確かめるべく、劇場に足を運んでもらいたい。本記事前半で説明したように、今作はとくにアメコミ映画の前知識などは重要ではないので、気軽に観始めることができる。もし興味が出たら、他の映画作品や原作コミックに手を出してみるのがいいだろう。

最後に、劇場で販売されているパンフレットは非常に内容が充実していた。キャラクター紹介部分、たまに日本語が「?」となるものも見受けられたが、映画を楽しめたなら「書い」な一冊だと思う。

というわけで、スーサイド・スクワッドありがとう!THE RIVERはこれからも続報などを追いかけていくぜ!

Eyecatch Image:http://screenrant.com/suicide-squad-movie-calendars/

Writer

中谷 直登
中谷 直登Naoto Nakatani

THE RIVER編集長。ライター、メディアの運営や映画などのプロモーション企画を行っています。お問い合わせは nakatani@riverch.jp まで。

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