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真実と虚構の間で息づく『ミューズ・アカデミー』

『ミツバチのささやき』などのビクトル・エリセに「現代スペインで最も優れた映画作家」と評されたホセ・ルイス・ゲリン。
『シルビアのいる街で』で、一躍世界にその名を広めた彼の待望の新作『ミューズ・アカデミー』が、現在、東京都写真美術館にて公開中である。

本作は、物語の中心人物である大学教授と、彼の学生たちから、授業風景を撮って欲しいという依頼から製作がスタートした。
ゲリン自身がキャメラを回し、録音技師と二人だけで撮影に臨み、撮影していくうちに、「これは映画になる」と確信したという。

ドキュメンタリーとフィクションの融和

http://eiga.com/movie/83161/gallery/2/
http://eiga.com/movie/83161/gallery/2/

我々観客は誰しもこの、ドキュメンタリーとフィクションの境界の曖昧さを感じずにはいられないだろう。
そもそも本作に登場する、教授、学生たち、教授の妻、みな映画の中の役割だけでなく、実在する環境に人々は実在し、この土台としての関係性にゲリンはキャメラを向けているのである。

タイトルである『ミューズ・アカデミー』から察する通り、ミューズ(女神)に関する研究であり、議論であり、人々は思うままに言葉を発し、とにもかくにも終始言葉が溢れている。この“アカデミー”と“言葉”の関係の根底にあるのは、自由さと奔放さである。
この“アカデミー”と“言葉”の自由さと同様に、本作の映画としての存在も非常に自由で奔放である。映画媒体のアカデミックな側面からはあまりにもかけ離れている。

本作の、実在する環境と人物たちにキャメラを向けるドキュメンタリー的側面と、物語を創作していくフィクション的側面。ドキュメンタリーであれ、フィクションであれ、作り手というものが存在し、対象にキャメラを向ける。何かを切り取ろうとする。何かを描こうとする。この、作り手という外部の存在の、「~する」、あるいは「~しようとする」、この意思がある以上、そこにはどうしても作為性が生まれてしまう。
映画製作におけるモンタージュとはまさしくそうで、モンタージュから生まれるのは、映像のリズムであり、映画の全体像に対しての統制である。ところが本作は、そのリズムはどこか単調で、言葉は氾濫し(それはあまりにも)並列的に並べられ、作為性というものが曖昧である。

撮影の面に関してもそうである。ドリーやクレーンなどの移動ショットの不在。映像と映像の繋ぎ、説明、表象、潤滑油的効果をもたらす、インサートショットの不在。そして、固定ショットと手持ちショットの交錯の不規則性。これらは、本作の映画としてのリズムを拒否し、作為性を曖昧にすることで、同時に、ドキュメンタリーとフィクションの境界を曖昧にすることに成功している。

http://eiga.com/movie/83161/gallery/4/
http://eiga.com/movie/83161/gallery/4/

また本作で、誰しもが印象深く感じるであろう、“窓ガラス越しショット”の数々。
窓ガラス越しに人物を捉えれば、同時にガラス面には、街並みや、道行く人々、自然などの風景が映り込む。キャメラを向けた先にいる人物は、たしかにこの世界に存在しているが、そこで切り取られている世界はやはりフィクションなのである。しかし、窓ガラス越しに捉えられた人物は、そこに同時に映り込んだ、“キャメラの向けられていない世界”の揺るぎない存在とともにあり、かつ、“ガラス面上で反転する世界”の中で息づくのである。
実在する世界の強度、反転した世界の神秘性、これらもまた、キャメラを向けることで生まれてしまう作為性と融和し、ドキュメンタリーとフィクションの境界を曖昧にしていくのだ。

映画『ミューズ・アカデミー』は、2017年1月7日より東京・東京都写真美術館ほか全国にて順次公開。

(c)P.C. GUERIN & ORFEO FILMS

Writer

Yushun Orita

『映画と。』『リアルサウンド映画部』などに寄稿。好きな監督はキェシロフスキと、増村保造。

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