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『オデュッセイア』徹底解読 ─ 『ダークナイト』『オッペンハイマー』に連なる、ノーラン流「英雄譚」の秘密

オデュッセイア
photo by Melinda Sue Gordon (C) Universal Studios. All Rights Reserved.

「その歌はやめて。オデュッセウスの歌はいらない、私はオデュッセウスが欲しい」

全世界に続き日本でも大ヒットを記録している映画『オデュッセイア』は、10年におよぶトロイア戦争を終わらせた英雄の〈歌〉が断ち切られる場面から始まる。吟遊詩人が「トロイの木馬」の偉業を客人たちに歌い聞かせていると、宮殿の奥の間から、妻・ペネロペの声が飛ぶのだ。

あっと驚く奇策で戦争を勝利へ導いた英雄は、その帰路で仲間を失い、ついには故郷と、愛する妻と息子をも忘れてしまった。故郷イタケへ戻ったあとも、物乞いに姿を変え、名前を名乗ることすらできない。しかし、その男がやがて巨大な弓を手にする……。

原典は詩人ホメロスによる、世界で最も古い英雄叙事詩のひとつ。監督クリストファー・ノーランは、この〈詩〉から、〈歌〉から、ペネロペが言うように“人間”オデュッセウスを引きずり出した。

約2800年前に紡ぎ出された、壮大なる英雄譚。その旅路は、ノーランが過去に描いてきたものと奇妙なまでに一致している。まるで、彼のために原典が書かれたようにすら思えるほど。

ばらばらの時間・記憶・アイデンティティ

オデュッセイア
photo by Melinda Sue Gordon (C) Universal Studios. All Rights Reserved.

かつて、詩人ホメロスは、トロイア戦争の英雄オデュッセウスが我が家を目指す物語を、出来事の年代順にではなく、時系列をシャッフルしながら描いた。原典の始まりは王が不在のイタケ。オデュッセウスの息子テレマコスは、父の消息を求めて旅に出る。オデュッセウスの冒険も、本人が過去を語る形で明かされるのだ。

この構造をノーランは自らの映画化に取り入れた。オデュッセウス(マット・デイモン)が出征前にイタケで過ごした時間、トロイア戦争を戦う姿、そして戦後に大海原を旅する様子。かたや戦後のイタケでは、ペネロペ(アン・ハサウェイ)とテレマコス(トム・ホランド)が、夫/父親の帰りを待っている。

過去の時間は、誰かが〈語る〉〈聞く〉〈思い出す〉ことで開かれる。吟遊詩人の〈歌〉が、トロイア兵による木馬の発見を呼び出し、ペネロペや豚飼いのエウマイオス(ジョン・レグイザモ)がオデュッセウスを回想することで昔の出来事が明らかになる。テレマコスは武将メネラオスの話を聞き、木馬の“内側”を知る。

原典と同じく、オデュッセウスの冒険は本人の記憶によって紐解かれる……が、ノーランが映画版に加えたのが「記憶喪失」だ。原典のオデュッセウスは、魔女カリプソの島でも故郷を決して忘れないが、映画では蓮によって記憶をなくしてしまう。これは原典で、蓮を口にした仲間たちが故郷へ帰る意志を失うエピソードを交えた脚色だ。

自分はどこから来たのか、妻や子どもはいるのか。その記憶すら失っているオデュッセウスだが、カリプソとの対話から航海の記憶を語りはじめる。巨人キュクロプス、魔女キルケ(サマンサ・モートン)、冥府、セイレーン、スキュラ、そしてゼウスの雷。あらゆる過去を取り戻していくオデュッセウスだが、最後の決め手は、出征前にペネロペから渡されたアテナの金のピンだ。

ノーランの作品において、「記憶」と「アイデンティティ」には深い関係がある。

『メメント』(2000)では、新たな記憶を保持できないレナードが、妻を殺した犯人を追いつめるため、ポラロイド写真やタトゥーを残すことによって、「自分が何を信じ、なぜ行動するのか」を規定する。オデュッセウスもまた、記憶を取り戻すにつれて己を取り戻していくのだ。

ばらばらに配置された時間と、同じくばらばらになったオデュッセウスの記憶。ノーランが映画を通して見せるのは、ふたつの“ばらばら”を統合させてゆくプロセスでもある。

ただし、時間と記憶が統合されたあとも、オデュッセウスの旅が終わることはない。彼は物乞いの姿でイタケに戻ると、自身の帰還を誰にも告げずに行動を始めるのだ。父として、夫として、そして王として──やはり“ばらばら”のアイデンティティを、オデュッセウスは故郷にて回復し、真の〈帰還〉を遂げなければならない。

この〈帰還〉をめぐる物語を、ノーランは長年のモチーフである〈水〉に託している。

クリストファー・ノーランと〈水〉

オデュッセイア
photo by Melinda Sue Gordon (C) Universal Studios. All Rights Reserved.

クリストファー・ノーランの映画には、きわめて頻繁に〈水〉が現れる。

『インソムニア』(2002)で主人公が相棒を撃つのは、霧に覆われた水辺。『プレステージ』(2006)で復讐劇のきっかけとなるのは、水槽からの脱出マジックで起きた溺死事故だ。『インセプション』(2010)は海岸へ打ち上げられた主人公の姿から始まり、『インターステラー』(2014)では、巨大な波で覆われた惑星に人々が翻弄されるそして『オッペンハイマー』(2023)では、原子爆弾という脅威の余波が、水たまりに降り注ぐ雨の波紋で示唆された。

本作に最も近いのは『ダンケルク』(2017)だろう。

オデュッセウスらが海の冒険を経て故郷を目指す『オデュッセイア』と、浜辺に追いつめられた兵士たちが、海を渡って故郷に帰ろうとする『ダンケルク』は、非常によく似た構造をもつ。恐るべき海が、同時に我が家への旅路となるのだ。

それでも、本作ほど〈水〉にあふれた作品は珍しい。波の音から始まる冒頭、砂浜に埋まったトロイの木馬、一行を襲う大波など、全編に〈水〉のイメージが充満する映画だ。

オデュッセウスの〈帰還〉もまた、〈水〉によって表現されることになる。

故郷に戻ったオデュッセウスは、周囲の者たちに一人、また一人と正体を知られてゆく──老犬アルゴスやエウマイオス、テレマコス、そして乳母のエウリュクレイア(ケイト・フグレイ)。しかし、アガメムノン(ベニー・サフディ)の最期に学んだオデュッセウスは、妻には正体を悟られないようにしていた。

物乞いの男が旅人だと信じたエウリュクレイアは、ペネロペに頼まれて男の足を洗うなか、足首の傷跡に気づく──それは、かつて彼女自身が治療した狩りの傷だ。その瞬間、オデュッセウスは水の入った鉢を蹴り倒し、水を床へこぼすと、正体を明かさぬよう合図する。

オデュッセウスの〈帰還〉は終わっていない。まだ〈水〉は流れたままだ。ノーランは決定的な瞬間を、ペネロペとの再会まで周到に取っておいている。

実は映画の序盤から、イタケの宮殿には、ペネロペの奥の間から水が流れ出している。その扉が開き、ついにペネロペがオデュッセウスの〈帰還〉を認めたとき、水源がはじめて正面から捉えられるのだ。

ペネロペのもとを旅立ってから20年、過酷な戦争と旅のさなか、自分自身さえ見失った男が、最後にたどり着いたのがペネロペのいる場所だった。そこには、〈水〉のはじまり──すべての始点にして、すべての終着点がある。

もっともオデュッセウスの場合、記憶を取り戻すことは、夫や父親としての自分を取り戻すことにとどまらない。トロイア戦争の〈英雄〉だった自分を思い出すことは、自らの〈罪〉と、その責任に対峙することでもある。

英雄・オデュッセウスの〈罪〉と〈後悔〉

ノーランがホメロスの『オデュッセイア』から最も大きく改変したと言えるのは、オデュッセウス最大の偉業である「トロイの木馬」だ。

原典においてトロイア戦争は終結しており、木馬は歌や回想によって断片的に語られるのみ。しかし、映画では木馬と戦争が異なる視点から何度も語られ直している。あるときは吟遊詩人が歌う偉業として、あるときはメネラオスが見た作戦の内情として。そして、あるときはオデュッセウスが見た地獄として。

アテナへの贈り物だとされた木馬を、トロイア人は街へ迎え入れる。その内側に潜んでいたギリシャ兵が城門を開いたことで、10年ぶんの憎悪が街へ流れ込んだ。次々と殺される兵士や市民たち。アテナ(ゼンデイヤ)と同じ顔をした女性は命乞いをするが、刃は振り下ろされ、そのとき女神像の首が落ちる──。

ノーランが原典の構造を残しつつ、執拗なほど反復する“運命の一夜”を通じて描くのは、偉業の裏側にある〈罪〉と〈後悔〉だ。

映画の序盤から語られるのは、「自分がしてもらいたいように他者を扱う」という“ゼウスの掟”であり、それはすべての客人を歓待する“クセニア”と思想を共有している。社会はその意味と秩序を尊重するからこそ成立している──ところがトロイの木馬は、「和平のしるし」という贈り物の形をした最悪の兵器だった。

オデュッセイア
photo by Melinda Sue Gordon (C) Universal Studios. All Rights Reserved.

しかも、木馬によって裏切られたのはトロイア人だけではなかった。味方の兵士シノン(エリオット・ペイジ)は、トロイア人に木馬を信じ込ませる使命を負ったために、オデュッセウスから作戦の全貌を知らされないまま命を落としたのだ。

冥府で再会したシノンは問う。「あなたはみんなに嘘をついた。僕にまで嘘をつく必要があったのか?」すると、オデュッセウスは答える。「死にゆく者は真実を話す。君自身に信じてもらう必要があったのだ」

策略を成功させるため、オデュッセウスは長年ともに戦った仲間との信頼さえ利用した。シノンはホメロスの原典に登場しない、後代の伝承で語られてきた人物。彼を映画に加え、オデュッセウスの〈罪〉を象徴させた脚色には大きな意味がある。

のちに、オデュッセウスは後悔を吐露する。「我々は神聖なるもののすべてを踏みにじった」。己の知略が、ゼウスの掟を永遠に破ってしまったことに気づいたのだ。

「トロイアの城壁を焼くことは、世界を焼くことだった。我が家も含めて」

したがって、トロイアとイタケがよく似ていることも必然だ。ペネロペと王位を狙う者たちは、正当な求婚者のような顔をして、“ゼウスの掟”を悪用しながら宮殿に居座る。故郷に戻ったオデュッセウスも、木馬に潜んだ時と同じく、再び正体を隠したままその内側に入り込んだ。

かくしてノーランが描いたのは、前作『オッペンハイマー』(2023)と共通するテーマだ。それは失敗の罪ではなく、成功ゆえの〈罪〉。類まれなる知性と能力によって難題を解決し、不可能を可能にした者が、それゆえに超えてはいけない一線を超えることである。

理論物理学者J・ロバート・オッペンハイマーは、自らの熱意と技術をマンハッタン計画へ注ぎ込み、原子爆弾を完成させた。オデュッセウスは、10年かけても破れなかったトロイアの城壁を、自らの作戦によって突破した。どちらも最大の功績がおびただしい犠牲を生み、世界のルールを決定的に変えてしまったのだ。

「宮殿と交易、言語のある世界。壊してしまうまで、その美しさに気づかなかった」とオデュッセウスは言う。「ゼウスの掟を破ったことが、癌のように広がっている。青銅の時代は終わりつつある」

『オッペンハイマー』で、キリアン・マーフィー演じるオッペンハイマーは、自らの開発がもたらした惨禍を直視できず、けれどもその余波を受け止め、戦慄した表情を浮かべる。そして『オデュッセイア』では、トロイアの街が燃えるなか、マット・デイモン演じるオデュッセウスの、“何か”を呆然と見つめる顔が何度も映し出されるのだ。

そのとき、彼の視線の先にあったものとは──。映画のラストで映し出されるのは、燃え上がるトロイの木馬だ。トロイア戦争を終わらせたオデュッセウス最大の発明が、炎に包まれながら倒れ、アテナの神殿にもたれかかる。

最後にペネロペは、文明は再び立ち上がるだろうと語る。するとオデュッセウスは、暗黒の世界にも夜明けが来ると告げながら、こうも付け加えるのだ。「我々の過ちは、再び忘れられる」

このラストシーンが照らすのは、前作『オッペンハイマー』でノーラン自身が描いたもの、さらに言えばその結末で想像された、世界に炎が広がる未来のイメージではないか。

オデュッセイア
photo by Melinda Sue Gordon (C) Universal Studios. All Rights Reserved.

『ダークナイト』と古代の神話

『オデュッセイア』のプロモーションにて、ノーランは古代ギリシャの英雄たちを「元祖スーパーヒーロー」と呼んだ。マーベルやDCなど、コミック文化の多くは「ホメロスの叙事詩から直接的な影響を受けている」と。

オデュッセイア
photo by Melinda Sue Gordon (C) Universal Studios. All Rights Reserved.

したがって、本作はオデュッセウスの〈罪〉を正面から描いたあとも、彼を〈英雄〉の座から引きずり下ろそうとしない。ノーランが『ダークナイト』3部作において、主人公のバットマン/ブルース・ウェインを、脆さと傷をたたえた人物として描いたように。

コミックという“現代の神話”を現実のリアリティに落とし込むのは、『バットマン ビギンズ』(2005)以来のノーランの手法だ。なぜ、ブルース・ウェインはバットマンになるのか。彼はいかにして戦闘技術や装備を整えたのか、バットスーツやバットモービルのデザインにはどのような必然性があるのか?

『ダークナイト』3部作を貫いたこの手つきを、ノーランは『オデュッセイア』で神話の原型に持ち帰っている。傷つき、疲れ切り、感情のままに判断を誤るオデュッセウス。ぎりぎりの実在感をもって現れる巨大な怪物キュクロプス、人物の感情と観客の想像力をもって実現されるキルケの魔法、そして姿を見せない形で表現されるゼウスら神々──。

物語の面でいえば、3部作の完結編『ダークナイト ライジング』(2012)は、とりわけ本作と奇妙な相似形をなしている。

ゴッサムの英雄だったブルースは、心身に傷を負って姿を消していた。そこに現れたのが、街の秩序を破壊しようと目論むベインだ。ブルースは再びバットマンとなるが、あえなく完敗し、地位と財産を奪われ、遠く離れた地下牢へ送られる。ゴッサムはベイン一派に占拠され、秩序は崩壊した。しかし、没落した英雄は異郷で自らを取り戻す。地下牢を這い上がると、ベインに奪われた故郷へ帰ってくるのだ。

コミック映画のスケールを、神話や歴史映画のような規模まで拡大した『ダークナイト ライジング』は、典型的な貴種流離譚──高貴な人物が不幸な境遇となり、試練の旅を経て再び帰ってくる──の構造をもつ。そして、それゆえに『オデュッセイア』と美しい一致を見せるのだ。バットマンはベインに奪われたゴッサムに、オデュッセウスは求婚者たちのはびこる宮殿に戻ってきて、それぞれの故郷を奪還する。

『ダークナイト ライジング』がホメロスやギリシャ神話を下敷きにしていた根拠はない。けれども、ノーランにとって『オデュッセイア』は同作の語り直しでもあったのではないか。思わずそう言いたくなるのは、オデュッセウスという〈英雄〉の物語を、ノーランがスーパーヒーローの鮮やかな復活劇としても描いているからだ。

若き日のオデュッセウスは、矢を射る前に弓弦を指ではじいていた。20年後、物乞いの姿をした男が、同じ弦をまったく同じように鳴らす。冒頭では吟遊詩人に〈歌われる〉存在だった人物が、最後にはその場所に立ち、音色を奏でることで〈英雄〉として再起する──なんというカタルシスだろうか。

こうして、イタケを求婚者たちから奪い返したオデュッセウスは、王位をテレマコスへ譲ると、ペネロペを連れて再び海へ出る。失った仲間を弔うため、未知なる西を目指し、〈水〉の物語がふたたび始まるのだ。若き日のペネロペが、戦争から逃れるため、「逃げゆく太陽を追いかけ、未知なる西へ」向かおうと夫に語りかけたように。

興味深いのは、原典とは異なるこのラストが、『ダークナイト ライジング』の変奏となっていることだ。

ブルースはベインの手からゴッサムを救うと、再び姿を消し、キャットウーマン/セリーナ・カイルとともに新たな人生を始める。かたや故郷では、若手警官のジョン・ブレイクが彼のいないバットケイブへ導かれ、次の世代への継承が示唆される。

共通するのは〈英雄〉の新たな旅、世代交代、そして大海原とバットケイブに満ちる〈水〉。最後に主人公の隣にいるのは、どちらもアン・ハサウェイ演じる人物だ。

オデュッセイア
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「成功者」クリストファー・ノーランの〈責任〉

「幼い頃から観てきたような最高の神話的映像作品が、巨額の予算と、ハリウッド&IMAX®の大作らしい重厚感とリアリティをもって製作されていないことに気づいた」

かつてノーランは、『オデュッセイア』を今の世界に送り出す意味をそう語った。約2800年前の叙事詩を“現代のエンターテインメント”として成立させるとき、『ダークナイト ライジング』との共通点が多くなったのは、同作こそノーラン流スーパーヒーロー映画、あるいはノーラン流スペクタクルの到達点だったからかもしれない。

オデュッセイア
photo by Melinda Sue Gordon (C) Universal Studios. All Rights Reserved.

もちろん、『オデュッセイア』にみられるノーラン映画らしさ──時系列を行き来する語り、記憶が開く過去、没落した英雄の流浪と帰還──の多くは、ホメロスの原典に根ざしたものだ。その一方、ノーランが大きく手を加えた部分にこそ、現在の問題意識が見える。英雄の偉業であったトロイの木馬を、人間同士の信頼を破壊し、ひとつの時代を終わらせた〈罪〉として捉え直すことだ。

なぜノーランは、『オッペンハイマー』と『オデュッセイア』の2作連続で、〈かつて存在しなかったものを生み出した男〉を描いたのだろうか。

以前からノーランは、映画製作と登場人物の営みをしばしば重ねてきた。『プレステージ』を「映画づくり」についての作品と語ったとき、観客を驚かせることに人生を懸ける奇術師たちは、彼自身にとって非常にパーソナルな存在だったのだろう。ならば、オッペンハイマーにとっての原子爆弾、オデュッセウスにとってのトロイの木馬は──同じ尺度で語りえないことを前提として言えば──ノーランにとっての映画だったのではないか。

彼らはみな、望むものを自分ひとりの力では作りあげることができない。だからこそ、大勢の人間を集め、まだ現実には存在しないアイデアを形にしようとする。あまたの難題を解決し、大いなる〈成功〉を収めるために。

『ダークナイト』でIMAX®カメラをハリウッドの長編映画に導入して以来、その領域を拡大してきたノーランにとって、「全編をIMAX®フィルムで撮影する史上初の劇映画」は少年時代からの夢だったという。その夢を本作で叶えられたのは、前作『オッペンハイマー』が予想をはるかにしのぐ〈成功〉を収めたからだ。そして物語の主人公は、己の〈成功〉で世界を変えてしまったオデュッセウス。偶然にしては、少々出来すぎた一致ではないか。

ただし、ノーランが全編IMAX®の力を発揮して撮影したのは、オデュッセウスの冒険や戦場、怪物という見せ場だけではなかった。『オッペンハイマー』で驚かされたという、IMAX®カメラが人間の表情を捉える力をより活かすため、静音技術の新開発にも関与し、静かな会話シーンも同じIMAX®カメラで撮影したのだ。

英雄についての〈詩〉から、〈歌〉から、ひとりの人間を引きずり出すこと。そのためにノーランは、25年以上かけて獲得してきた映画の技術と、創造の自由を注ぎ込み、このスペクタクル大作を創り出したのである。

長年IMAX®カメラでの映画撮影に取り組み、その表現力と商業的な価値を証明することで、ノーランは映画スタジオや後続のフィルムメイカーに大いなる影響を与えてきた。彼もまた、自分の創作を追求することで、ハリウッドの歴史とルールを変えてしまったのだ。

そんな彼にとって、『オデュッセイア』の映画化とは、長年の夢の達成であると同時に、〈成功〉によって手にした力と、それゆえの責任を引き受けることだったように思える。それは、自らが拡張してきた映画の可能性を、従来とは異なる形で結実させることでもあったはずだ。

ノーランが映画の最後に書いたのは、原典では予言にとどまっていた〈新たな旅〉に、オデュッセウスが実際に乗り出す様子だ。大いなる〈成功〉を経た人物が、未知なる西へと向かう──その姿に重なるのは、ほかならぬ現在のクリストファー・ノーラン自身である。

オデュッセイア
photo by Melinda Sue Gordon (C) Universal Studios. All Rights Reserved.

映画『オデュッセイア』は大ヒット上映中。
2D(字幕/吹替)、IMAX®(字幕)、Dolby Cinema®(字幕)、4DX(字幕/吹替)、MX4D®(字幕/吹替)、35mm(字幕)の全6種9バージョンにて公開

オデュッセイア

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Writer

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稲垣 貴俊Takatoshi Inagaki

「わかりやすいことはそのまま、わかりづらいことはほんの少しだけわかりやすく」を信条に、主に海外映画・ドラマについて執筆しています。THE RIVERほかウェブ媒体、劇場用プログラム、雑誌などに寄稿。国内の舞台にも携わっています。お問い合わせは inagaki@riverch.jp まで。

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