すべてのノーラン映画は『オデュッセイア』へ通ず

クリストファー・ノーランの最新作『オデュッセイア』が、9月11日の日本公開を前に、全世界で社会現象となっている。アメリカでは7月17日に封切られ、全世界興行収入は11億ドルを突破。『ダークナイト ライジング』(2012)を抜いて、ノーラン史上最大のヒットとなった。
いまやノーランは、世界でもごくわずかな「名前だけで観客を呼べる映画監督」のひとり。しかし、なぜこの映画にそれほど世界が熱狂したのだろうか?
ノーラン史上最高傑作の誕生
「ノーラン史上最高傑作」「2026年ベストの一本」。
ワールド・プレミア以来、『オデュッセイア』には批評家や観客から絶賛の声がやまず、早くもアカデミー賞を含む賞レースの有力株と目されているほど。その反響は出演者からも聞こえており、一同が脚本や撮影を振り返って「最高だった」と口を揃えている。
前作『オッペンハイマー』(2023)でノーランとタッグを組んだ、俳優・映画監督のベニー・サフディもそのひとりだ。「過去にノーランが作ってきた映画すべてが、まるでこの作品の準備だったかのよう」と称えた。
驚くべきは、ほかでもないノーラン自身が「私は長年にわたり、この物語を、すべての映画を通じて語ってきたように思う」と告白していること。「これは家族の、愛の、復讐の、戦争の物語。そして成長の物語です」と語っている。
古代から語り継がれてきた物語は、なぜノーランの最高到達点と評されたのか。過去作のすべてが、この『オデュッセイア』へ向かっていたとはどういうことか? その答えは、ノーランのキャリアと、彼が描き続けてきた主題の両方にある。

ハリウッドの豪華スター結集
映画の原案は詩人ホメロスによる古代のギリシャ叙事詩。しかし、その原典を知らなくとも、『オデュッセイア』の物語はきわめて明快だ。10年におよぶトロイア戦争を勝利に導いた英雄オデュッセウスが、妻子の待つ故郷へ帰るべく、壮大な冒険の旅に出る――たったこれだけである。
出演者には、ハリウッドを代表するオールスターキャストが集った。
主人公オデュッセウス役はマット・デイモン。小国イタケの王であり、「トロイの木馬」でトロイア戦争を終わらせた知略家だ。その帰りを、アン・ハサウェイ演じる最愛の妻ペネロペと、トム・ホランド演じる息子テレマコスが待っている。

ところが故郷では、ロバート・パティンソン演じる求婚者アンティノオスたちが、王の不在につけこみ、ペネロペと王位を狙っていた。そんななか、父の帰還を信じつづけるテレマコスは、その消息を知るためひそかに動き出す。
テレマコスが訪ねるのは、父とともに戦争を闘った武将メネラオス(ジョン・バーンサル)。トロイア戦争のきっかけは、メネラオスの妻ヘレネ(ルピタ・ニョンゴ)がトロイアの王子に連れ去られたことだった。メネラオスは妻を取り戻すため、兄アガメムノン(ベニー・サフディ)らとともにトロイアへ攻め込んだのだ。
総大将でもあるアガメムノンの妻は、奪われたヘレネの姉・クリュタイムネストラ(ルピタ・ニョンゴが一人二役で演じる)。そろって兄弟・姉妹という2組の夫婦が、この戦争のキーパーソンだ。
果たして、オデュッセウスは故郷に帰ることができるのか――。物語のカギを握るもうひとりの重要な人物が、ゼンデイヤ演じるアテナ。“知恵と戦略の女神”であり、オデュッセウスの旅路に時折姿を見せる。
もっとも、ホランドやニョンゴも『オデュッセイア』についてはほとんど知らなかったというから、この古典は現代ハリウッドの俳優たちにとっても“一般教養”とは言えないようだ。だからこそノーランは、そんな遠い古代の物語を身近に感じてもらうため、「最高の俳優たちを集めたかった」という。

次々に登場するスター俳優の顔を追うだけで、故郷に向かう男の旅と、その帰りを待つ家族、戦争を生んだ人々、そして謎めいた女神という構図が自然に浮かび上がる。思えばこの手法は、『オッペンハイマー』で複雑な伝記を語った際にも取り入れていたもの。なるほど、やはりノーランの過去作はここにつながっている?
すべてのノーラン映画は『オデュッセイア』へ通ず
映画監督クリストファー・ノーランは、これまで何を語り続けてきたのか。筋金入りのノーラン・ファンほどその答えに詰まるだろうが、代表的なひとつが「時間」の操作だ。
長編第2作『メメント』(2000)では、記憶を失った男が妻を殺した犯人を追う様子を、過去から現在へ向かうモノクロパートと、逆に現在から過去へと向かうカラーパートの同時展開で描いた。以降、時系列の解体はノーラン作品を特徴づけるものとなっている。
興味深いのは、そもそもホメロスの『オデュッセイア』に、出来事を年代順に並べず、時系列を自在に行き来する構成がそなわっていたことだ。約2800年前の原典に、ノーランが追求してきた物語構造の原型があった。
また、「主人公が我が家を目指す」というプロットもノーラン作品の共通点だ。『インセプション』(2010)は、とある事情を抱えたスパイが、子どものいる家に帰るため任務に挑む物語。『インターステラー』(2014)では、元空軍パイロットが人類の新天地を目指して宇宙に飛び出し、「必ず帰る」という家族との約束を果たそうとする。
そして、近年の作品で一貫してきたのが「戦争」だった。『ダンケルク』(2017)は第二次世界大戦下、フランスの戦場から撤退する作戦を題材とした、これまた「家に帰る」物語。『TENET テネット』(2020)は第三次世界大戦の阻止をめぐるミッションを、『オッペンハイマー』では“原子爆弾の父”と呼ばれた理論物理学者J・ロバート・オッペンハイマーを描いた。
時間、帰還、戦争、歴史。ノーランが長年描き続けてきたものは、「映画」そのものが誕生するよりも遥か以前から、ホメロスの『オデュッセイア』に存在していたのだ。

20年ぶりの帰還、ノーラン最大の挑戦
じつはノーランは、20年以上前にも古代ギリシャの物語を映画化する計画に参加していた。『インソムニア』(2002)の完成後、ワーナー・ブラザースから、本作と同じくトロイア戦争を題材とした歴史戦争映画『トロイ』(2004)に起用されたのである。
しかし、もともと企画を進めていたウォルフガング・ペーターゼン監督が復帰したことで、ノーランは企画を離脱。その後、『バットマン ビギンズ』(2005)を皮切りとする『ダークナイト』3部作を手がけ、大作映画の監督としてのキャリアを歩みはじめている。
それでもノーランの頭脳には、砂に半分埋まった木馬のイメージが残りつづけていたという。20年を経て『オデュッセイア』に戻ってきたのは、そこに「映像文化の空白」を見つけたからだった。ノーランはこう言っている。
「自分が幼い頃から観てきたような最高の神話的映像作品が、巨額の予算と、ハリウッド&IMAXの大作らしい重厚感とリアリティをもって製作されていないことに気づいたのです」

もっとも、完成した『オデュッセイア』は上映時間2時間52分という長尺。製作費は2億5,000万ドルともいわれる超高額だ。その一方、タイトルの知名度こそ高いが、その内容を知る者は決して多くない。人気シリーズの続編やリブートでもないうえ、北米ではR指定を受けた。
かくして、原典へのリスペクトを込め、クリエイターのビジョンをとことん具現化したこの映画は、上映回数や観客層のハンデを背負ったうえで膨大なコストを回収しなければならなくなった。これは言うまでもなく、ごく一部の映画監督にだけ許される挑戦だ。
主演のマット・デイモンは、本作のオファーを受けた際に「一生で一度のチャンスが来た」と感じたことを明かしている。「人生最後の大作映画になると思った」というコメントは、本作の存在自体がいかに稀有かを示しているだろう。
この賭けを可能にしたのは、ノーランがキャリアを通じて獲得してきた「信用」だった。本人いわく、『ダークナイト』(2008)の成功が『インセプション』につながったように、前作『オッペンハイマー』の世界的ヒットとアカデミー賞7冠の快挙が、『オデュッセイア』への扉を開いたのだという。
〈王道〉エンターテインメントという集大成
ハリウッド最高峰のスケールと、映画作家が自らの理想を追求できる制作体制の両立。配給のユニバーサル・ピクチャーズはノーランに全幅の信頼を寄せており、巨額の予算を委ねながら、徹底したクリエイター・ファーストを認めた。
その様子たるや、長年ハリウッドで活躍してきた出演者のジョン・レグイザモが、ノーランを「とんでもない予算を手にしたインディーズ監督のよう」と証言したほど。しかもノーランは、映画ビジネスにおいて最も困難といわれる「自由」を、〈王道〉のエンターテインメント映画のために投じたのである。
繰り返すが、これは戦争で活躍した英雄が、愛する家族の待つ家を目指し、数々の危機に挑むという〈王道〉の冒険譚だ。ホメロスの時代、民衆が娯楽として楽しんでいた“物語の原点”を、ノーランは今も変わらず楽しめるエンターテインメントとして再構築した。
オデュッセウスは荒波のなかをゆき、島の岩山をよじ登り、未知の敵に対峙し、想像を絶する脅威に立ち向かう。また、息子のテレマコスも祖国と母を守るため、乱暴な求婚者に屈さず、ほとんど自らの記憶にない父親を追いかけるなかで成長してゆく。
そして妻のペネロペは、王である夫の不在に耐えながら、その帰りをひたすら待ち続ける。長年にわたり隔てられた夫婦は無事に再会し、ともに生きる時間を取り戻すことができるのか。ノーランは、この物語を「愛と喪失をめぐる、歳を重ねた男女のラブストーリー」とも表現した。
世界中の観客が、“不可能な映画”を待っていた
複雑な映画をいくつも手がけてきたノーランが、持てる技術と経験を余すところなく投入し、自らの作家性をいっさい失うことなく、最も古典的でパワフルな娯楽活劇を現代の観客に届けてみせた――。
これこそ、『オデュッセイア』がノーランの集大成といわれる最大の理由だ。ファン以外の観客をがっちりとつかんだことも明らかで、全世界オープニング興収は2億6,410万ドル。北米でも初週1億2,450万ドルを記録したあと、2週目に9,000万ドルを稼ぎ、前週からの下落は約27%にとどまった。
世界興収11億ドル超え、ノーラン史上最大のヒットが意味することは、「名前だけで観客を呼べる」稀有な監督であるノーランの新作を、その名前さえ知らない観客が観ているということだ。そして、現代のハリウッドでは不可能と思われていた王道の冒険映画が、実際には世界中の観客から強く求められていたという事実である。
映画『オデュッセイア』は2026年9月11日(金)公開。ノーランの最高到達点が、まもなく日本にやってくる。
『オデュッセイア』
9月11日(金)全国ロードショー
9月4日(金)~10日(木) IMAX先行上映決定!
2D(字幕/吹替)、IMAX®(字幕)、Dolby Cinema®(字幕)、4DX(字幕/吹替)、MX4D®(字幕/吹替)、35mm(字幕)の全6種9バージョンで公開
Supported by ビターズ・エンド
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