リドリー・スコット「毒舌、反骨、妥協なき映画作り」から見る『ラスト・サバイバー』 ─ 静と動の自信に満ちた「優しいディストピア」

己を貫くとはどういうことか。それならリドリー・スコットの映画を観ろ。常に仕事の手を緩めず、数十年に及ぶキャリアの間、ほとんどノンストップで第一線の大作映画を撮り続ける。
『エイリアン』(1979)でSFホラーの金字塔を打ち立てたかと思えば、『ブレードランナー』(1982)はSFノワールのイメージを永遠に変えた。『グラディエーター』(2000)では古代ローマの剣闘士の魂を蘇らせ、『ブラックホーク・ダウン』(2001)では劇場を戦場へと変えた。
その後も創作のペースは衰えない。『オデッセイ』(2015)『ゲティ家の身代金』(2017)『最後の決闘裁判』(2021)『ハウス・オブ・グッチ』(2021)『ナポレオン』(2023)『グラディエーターII 英雄を呼ぶ声』(2024)……伝記や社会派ドラマからスペクタクル大作まで、ジャンルを自在に横断してきた巨匠が最新作『ラスト・サバイバー』(8月28日公開)で挑むのは、ディストピアものだ。

題材そのものは王道である。しかし、スコットが見つめるのは終末世界の混沌や絶望ではない。<希望>を求めて旅する、“優しいディストピア”である。
半世紀近く、自分が面白いと信じる映画を撮り続けてきたスコット。その「己を貫く」姿勢は、作品だけに表れるものではない。本人が口を開けば、もっとわかりやすい。
監督は『ラスト・サバイバー』を世に送り出すにあたり、こんな発言をしている。「私は映画監督じゃない。インフルエンサーだ」。
もちろん、SNSで踊り始めたわけではない。スコットいわく、自分は同じことを繰り返したくないし、これまで何度も「時代の先」を行ってきた。時代の先を走れば、後続に影響を与える存在になる。ゆえに“インフルエンサー”なのだという。
確かにそうである。とりわけ『エイリアン』『ブレードランナー』が、SF映画にどれだけの革新をもたらしたことか。そして、その自負をスコットは隠そうともしない。
映画について聞かれれば、相手が誰だろうと遠慮しない。他人の作品に思うところがあれば言う。自分の作品を批判されても引かない。スタジオにも批評家にも歴史家にも、言いたいことがあれば言う。
だからスコットの発言は、ときに「毒舌」としてニュースになる。しかし、この巨匠は、むやみに悪態をついているわけではない。過去の発言を追っていくと、そこには映画作りと同じ、彼ならではの譲れぬ哲学が見えてくる。そして、その哲学が最新作『ラスト・サバイバー』にも宿っている。

批判されても引かない
自分の映画が専門家や映画評論家から批判を受けても、一切怯むことがない。それどころか、やかましいと吠え返すのがスコット節なのである。
その実例が、2023年の映画『ナポレオン』だ。作中の細かな描写が史実と異なっているとして、ある歴史専門家が苦言を呈したことがある。我々のような並の人間ならどう対応するだろう。貴重なご意見をいただき……、作品の受け取り方は人それぞれですので……、そんなふうに答えるだろうか。あるいはスルーを決め込んでやり過ごすだろうか。
さて、リドリー・スコットは……ズバリ「余計なお世話だ」の一言で吐き捨てた。これは歴史再現ドラマじゃない、自分が映画として何を見せたいかの方が大事なのだ、と、そう言わんばかりだ。
他にもこんなエピソードがある。今や問答無用の傑作に数えられる『ブレードランナー』だが、製作中には出資関係者から「テンポがスローすぎる」と散々言われ、公開時には映画評論家から手厳しい酷評を浴びた。
当時のスコットは、その批評に打ちのめされたらしい。そのあまり、記事ページを額縁に入れて、わざわざオフィスの壁に飾ったほどだというから執念深い。
そんな『ブレードランナー』を、スコット自身も長らく見返すことがなかった。ところが近年になって改めて鑑賞したところ、自己採点は「全然スローじゃない」。「当時は馬鹿馬鹿しいなんて言われたものだ。“勝手にほざいてろ”と言ってやりたいね」。ディスってきた批評家を、数十年後にディスり返す。40年前の因縁に、当時と同じ鮮度で対抗するこの反骨精神、凄まじいバイタリティである。
実在のグッチ一族を描いた『ハウス・オブ・グッチ』では、題材となった一族から人物描写への不満も噴出し、「極めて苦痛であり、グッチの遺産に対する侮辱だ」とシリアスに抗議した。
題材となった一族がご立腹ということで、さすがに何らかの配慮を見せるか……と思われるだろうが、スコットは意に介さない。「グッチ家の人々が文句を言っていることは、このストーリーと何ら関係はない」と一蹴してみせた。
“本物”を作るためなら妥協しない
たとえ実在人物を扱うからといって、当事者の意向に映画を委ねるつもりはない。最終的に何をスクリーンに映すのか。その判断を下すのは監督である──。スコットの発言を追っていくと、結局いつもそこに行き着く。
巨大フランチャイズであれ、歴史家や批評家、題材となった当事者たちが相手であれ、自分の映画をどう作るかは自分が決めると突っぱねる。そこまで自分の判断を貫く男が、自分の映画には何を求めているのか。
それは、徹底したリアリティだ。スクリーンに映った瞬間に、その世界を観客が心から信じられることだ。
たとえば『グラディエーター』では巨大なコロセウムの一部を実際に建設し、足りない部分をデジタルで拡張。『ナポレオン』では数百人規模の兵士を衣装で仕立て、大規模な戦場を作り、複数台のカメラを同時に回した。
『ラスト・サバイバー』でも、この執念は変わらない。文明崩壊後のアメリカを表現するため、撮影ではイタリアのフリウリ、ヴェネト、アブルッツォの山岳地帯など、スコット自身がロケハンを重ねて選んだ自然の景観を使い、真に迫る終末世界へと作り替えた。9週間の撮影には400人を超えるイタリア人スタッフも参加している。
「私のすべての映画で、舞台はひとつのキャラクターだ」と、スコットは語っている。『ラスト・サバイバー』でも、「風景が本当に信じられるものであること」にこだわった。
人類の大半が消え去った世界だからこそ、山は本物で、森は本物で、空は果てしなく広い。その圧倒的な自然の中に、生き残った人間を小さく置いた。

『ラスト・サバイバー』に見る、リドリー・スコット“静”と“動”の自信
言うならば『ラスト・サバイバー』は、手垢のついたプロットでもある。謎のパンデミックによって人口のほとんどが死滅した近未来。生き残った主人公は、愛犬と共に終末世界で日々を過ごしながら、略奪者たちの襲撃に備えている。『アイ・アム・レジェンド』や「ウォーキング・デッド」、『28日後…』シリーズ、「THE LAST OF US」など、必ずどこかで聞いたことのある物語になりがちだ。
ところが、と言うべきか、さすが、と言うべきか、『ラスト・サバイバー』には、よくある終末ものとは明らかに違う手触りがある。
まず、ありがちなゾンビものでは全くない。何せスコット、ゾンビ嫌いを公言している。「なぜ人々はゾンビに夢中になるんだ? ある種の奇妙な病気だと思う。私は基本的にゾンビが好きじゃない」と、ジェームズ・キャメロンとの対談で、身も蓋もなく語っている。
劇中では、ジェイコブ・エロルディ演じるパイロットのヒッグと、ジョシュ・ブローリン演じる元軍人バングリーが共同戦線を張り、生活圏を守りながら暮らしている。外から略奪者が忍び寄れば、バングリーがスナイパーライフルを構える。“感染者”やゾンビのような大群が押し寄せ、いちいち恐怖映画に転じることはない。
ここで恐ろしいのは怪物ではなく、追い詰められた人間だ。スコット自身も本作の恐怖について、「暗闇から怪物が飛び出してくる」ようなものではなく、心理的で本能的な恐怖なのだと説明している。
「舞台はひとつのキャラクターだ」……、本作でもその情景描写に惚れ惚れする。『ブレードランナー』で未来のロサンゼルスをじっとり幻想的に映し出したのと同じ。本作では、文明が崩壊し、緑が生い茂るアメリカの街とそこでの生活を、アコースティックギターの音色と共に穏やかな日常として見せる。
そこには、ディストピアものにありがちな仄暗さや不気味さがほとんどない。むしろ、この世界で生きるヒッグの暮らしぶりはなかなか牧歌的で、こんな生活も悪くないとさえ感じてしまう。

朝になれば、ヒッグは愛犬ジャスパーと共にガレージへやってきて、コーヒーを淹れ、機体を整備する。それから「今日はどこへ行く?」と小型機に乗り込み、滑走路から大空へ飛び立つ。夜になると、ヒッグはジャスパーと満天の星空を見上げ、勝手な星座を想像しながら眠りにつく。ときどき侵入者と対峙しなくてはいけない緊張感さえなければ、穏やかなヒッグとジャスパーの「やさしいディストピア日誌」を、もう少しずっと眺めていたいと思わされるほどだ。
だからこそ、暴力が訪れた時が強烈だ。静かだった世界に銃声が響く。リドリー・スコット監督作らしい大掛かりな“動”が炸裂する。状況は、たちまち追う者と追われる者に二分される。『エイリアン』や『ブラックホーク・ダウン』を撮った監督の緊迫感が、一気に劇場を支配する。
その一方で、何も起きていない時間を恐れず、人間と犬と風景だけをじっくり見せる。この緩急を、スコットは実に悠々と操っている。「静」と「動」。この落差こそ、『ラスト・サバイバー』の気持ちよさだ。

思えばスコットは以前にも、よく似た世界に惹かれていた。ウィル・スミス主演で『アイ・アム・レジェンド』として映画化されたリチャード・マシスンの小説『地球最後の男』を、かつてアーノルド・シュワルツェネッガー主演で映画化しようとしていたことがある。病原菌によって人類が壊滅状態に陥り、生き残った男が孤独の中で他者を探す。『ラスト・サバイバー』とも基本構造を共有する物語だ。
当時スコットが惹かれていたのは、単に「人が消えた終末世界」というSF設定だけではなかった。「私が魅了されていたのは、不幸の連鎖反応、退化のドミノ倒し効果、瞬く間にカオスと化すスピーディな展開だった。そして己を変え、他の人間を探すという部分も。あれは、寄り添って協力し合う集団の物語だからね。実際に、私が映画化しようとしていたのも、そういう方向性だった」。
世界が終わった後に、人間はどうするのか。一人で生き延びるのか。それとも、もう一度寄り添い合える誰かを探すのか。希望を信じるのか。かつて『アイ・アム・レジェンド』でスコットが描こうとしていた方向性に、数十年越しで『ラスト・サバイバー』がたどり着いたようにも見える。

文明が滅んでも、空は青い。森は育つ。愛犬とコーヒーを飲む朝があり、夜には星が見える。そして、どこかにはまだ誰かがいるかもしれない。その静かな世界を壊す暴力も描く。人間の醜さも描く。それでも、その先にあるものを「絶望」だけにはしない。
なぜならばスコット自身、こんなことを言っている。「私は楽観主義者の傾向があり、暗い未来には目を向けない。我々がエンターテインメントとして行なっていることの中では、暗い未来はあまりにも頻繁に起こり過ぎている」。頑固で、毒舌で、永遠の反逆者であるリドリー・スコットが最新作で描くのは、人と人がもう一度つながろうとする、驚くほど優しい希望なのである。
言葉も映画も妥協なし ─ “劇場で観るべき映画”を撮り続ける
他人の評価に流されず、自分が面白いと思うものを信じる。監督として主導権を握り、必要なら巨大なセットを組み、実景を探す。リドリー・スコットにとって、手段そのものに守るべき伝統があるわけではない。守っているのは、もっと根本的なことだ。それは、巨大なスクリーンの前に座った観客を、別の世界へ連れていくこと。
『エイリアン』では宇宙船ノストロモ号へ、『ブレードランナー』では雨に煙る未来のロサンゼルスへ、『グラディエーター』では古代ローマへ。スコットは半世紀近く、映画館の暗闇から観客を違う世界へ送り込み続けてきた。
『ラスト・サバイバー』では、人間の消えた街を覆う緑、小型機から見下ろす果てしない山々と淡い空色、静寂の中に響く銃声。派手なスペクタクルだけではなく、ヒッグとジャスパーが星空を眺める穏やかな時間まで……。大きなスクリーンで観ることで、まるで観客もそこで暮らし、共に生き延び、おなじ希望を追い求めているような感覚を与える。
映画を取り巻く環境は、半世紀の間に大きく変わった。それでもスコットは、映画館でしか得られない体験を作るという信念だけは、一度も手放してこなかった。だから88歳になった今も、リドリー・スコットの映画には「これは劇場で観たい」と思わせる力がある。
言いたいことは言う。撮りたいものは撮る。そして撮るからには、観客を本気でその世界へ連れていく。『ラスト・サバイバー』は、そんな妥協知らずの巨匠が、いまなお映画館でこそ味わいたい“別世界”を本気で作ってみせた一本である。
『ラスト・サバイバー』は大ヒット上映中。

Supported by ウォルト・ディズニー・ジャパン
参考:『SF映画術 ジェームズ・キャメロンと6人の巨匠が語るサイエンス・フィクション創作講座』DU BOOKS
The Times, The New Yorker, Slashfilm
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