【レビュー】『スマッシング・マシーン』は何を示そうとしたのか

『スマッシング・マシーン』の鑑賞感は、どこかもっさりしている。筋肉隆々のドウェイン・ジョンソンが汗まみれで登場するので、ビジュアルは力強い。だが、その力強さが、そのまま映画的な高揚感に繋がっていくわけではない。
最も大きいのは、本作がスポ魂映画ではないということだ。いわゆる「努力・友情・勝利」ではなく、「努力・友情・敗北」である。「勝利は最高の快感だ」と語り、自分自身を神格化すらした男が、たった一度の敗北(厳密には無効試合)を機に、みるみる自信を失い、下り坂を転げ落ちていく。この映画が見せるのは、筋肉モリモリのマッチョマンが、控え室で1人シクシク泣いたり、恋人と喧嘩してモノに当たったり、入院先に駆けつけてくれた親友に「大好きだよ」と言いながら泣きじゃくる姿だ。
『スマッシング・マシーン』の内容や結末に触れています。

努力を讃え、勝利の栄光を華々しく描く格闘技映画ではなく、勝利に取り憑かれていた男が、敗北を認め、戦士からひとりの人間へと戻っていく姿を描く。だから『ロッキー』のような高揚感は得られない。後述するが、それこそがベニー・サフディ監督が望んだ写実性だ。元気がもらえるというタイプの映画ではない。むしろ、残るのは少し重たい実感の方だ。これほど屈強な身体を持ち、努力を重ね、人生を捧げてきた者でも、ダメな時はダメなのか、と。
特徴的なのは、格闘家映画の中でもハイライトになるべき試合のシーンにも、そこまで重心が置かれていないことだ。ベニーは「試合を観戦する」感覚を演出するため、あえてカメラをリングの中には入れず、我々が会場やテレビ中継で見るのと同じ視座に制限した。渾身のパンチをスローモーションで見せたり、マーク・ケアーの一人称で試合の臨場感を体感させるなどのエピックな演出はなく、むしろ即興的なジャズのビートとともに、ひたすら俯瞰的に描く。

マーク・ケアーは、当時の格闘技シーンにおいては知らぬ者のいないスター選手だ。しかし映画は彼をキャリアのピークを目指して奮闘するサクセスストーリーの主として扱わない。すでにキャリア絶頂にいた彼が、敗北や薬物依存、私生活の混乱に直面していき、キャリアを手放していく様子を、共感と哀れみを持って取り扱う。
本作の監督はサフディ兄弟のうち弟ベニーの単独作。彼らの前作『グッド・タイム』(2017)『アンカット・ダイヤモンド』(2019)を観ると、「人は収まるべき場所に収まる」という因果を痛烈に感じさせるものになっている。こうした映画には終わりがある一方、人生は続いていく。ひとつの“結末”を迎えた人間にも、それからの生きる歳月がある。むしろ『スマッシング・マシーン』が本質的にやりたかったのは、最後にマーク・ケアー本人の素朴な日常の一コマを紹介することだった。
日本での大試合で敗れ、控え室で顎を縫ったケアーは、シャワールームで汗を流しながら、項垂れる。ところが、彼の心は軽くなっている。勝利したはずのマーク・コールマンがチャンピオンベルトを巻いて重い表情を浮かべているのに比べ、敗北した方のケアーは救われたような笑みを浮かべている。解放され、もう勝利に囚われることはなくなった男の安堵だ。
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