『DIGGER/ディガー』イニャリトゥ監督ロングインタビュー ─ 「他人から受け取った物語ではなく、自分で観て、自分の体験にしてほしい」【限定】
──ディガーは世界を危機に陥れる人物です。傲慢で、決して好きになりやすい人物ではありません。しかし彼の言っていることは極端でありながら、不思議と説得力もある。それに、病気の猫をどれほど大切にしているかも描かれます。ネタバレにならない範囲で、観客がディガーに共感しながら、同時に反発も覚えるという、そのバランスにはどう取り組みましたか?
それこそが、今の世界を動かしているリーダーたちの力だと思うんです。彼らは非常にカリスマ的ですよね。
彼らには、とても説得力がある。現実の世界というのは非常に複雑で、物事は白か黒かではありません。「善人」と「悪人」がいるだけではない。ところが今の世界は、「右か左か」というような、非常に単純化された言葉で二極化しています。
そうしたリーダーたちには、言葉やナラティブ、ストーリーテリングによって人々を誘惑し、説得する力があります。私たちは現実そのものよりも、彼らの語ることを信じるようになる。彼らは現実の上に自分たちの物語をかぶせていき、そのせいで私たちは、現実そのものを認識する力さえ失いつつあります。

ディガーの言っていることにも、たくさんの真実が含まれています。私たち全員が何らかの形で関わっていることも、たくさんある。だからこそ、この映画は居心地が悪いし、恐ろしいほど可笑しいんです。なぜなら、これは私たちが実際に生きている世界だから。この映画のトーンそのものの中を、私たちは今、生きているのだと思います。
──2014年の『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』も、大きなエゴを抱え、自分が作り上げた物語と現実との間でもがく男を描いた作品でした。リーガン・トムソンとディガーに、何らかの共通点を見出していますか?
リーガン・トムソンは、評価されたいと願い、自分自身の価値を証明しようとしているアーティストです。その奥には、ある意味で非常に脆い人間がいる。
一方、ディガーは権力を受け継いだ人物です。そして、その権力を失うことを心の底から恐れている。ある意味、それだけが彼の持っているものだからです。あとは猫ですね。猫だけが、彼にとって唯一の感情的なつながりです。
ですから、2人のキャラクターが追い求めているものは違います。もちろん、どちらも人間についての物語ですし、権力や強欲というものは、種としての私たち人間のDNAの一部でしょう。でも、2人がたどる旅路は違うと思います。
──もともと本作を『Blah Blah Blah』(※日本語で“うんたらかんたら”など。くだらない話、退屈な長話などの意味)と名付けたかったと伺いました。言葉や言語というものは素晴らしい一方で、人間が持つ恐ろしく強力な武器にもなり得る、ということですね。2006年公開の『バベル』であなたは、言語の限界や、言葉を超えて人間がどうつながるのかを描きました。そして今年は『バベル』からちょうど20年です。20年を経て、言語に対する考え方は変わりましたか?
今と当時との違いはあります。『バベル』を作って、ここ日本でも撮影してから、もう20年になるんですね。ちょうど今ごろの時期に、菊地凛子さんや役所広司さんたちと撮影していました。
当時の世界は、まるで別の惑星でした。今のようなソーシャルメディアは、まだ存在していなかった。
『バベル』では、登場人物たちはお互いに会うことも、物理的に触れ合うこともないのに、互いの人生に影響を与えていきます。
でも今、私たちはつながっている。言語を通して、言葉を通して、“blah blah blah”を通してね。ところが、その“blah blah blah”の音量と量があまりにも大きくなってしまった。
世界の歴史上、これほどまでに人々がたくさん話し、これほどまでに人の話を聞かなかった時代はないと思います。これほどまでにつながっているのに、同時にこれほど孤立し、分断されている時代もなかった。それは、言葉があまりにも多すぎるからです。だから私は、この映画を『Blah Blah Blah』と呼びたかった。

ディガーの武器もまた、ナラティブであり、ストーリーテリングです。それによって私たちは現実の世界から遠ざけられ、もはや筋が通らないようなことまで信じるようになる。
これはみんなが感じていることだと思います。私たちは、それぞれ異なる現実の中で生きています。あなたのスマートフォンは、あなたが心地よく感じる“現実”をあなたに与えている。私の現実はあなたの現実とは違う。同じ空間に一緒にいるのに、です。
それは恐ろしいことです。そして、それこそがこの映画の描いていることだと思います。

























