『DIGGER/ディガー』イニャリトゥ監督ロングインタビュー ─ 「他人から受け取った物語ではなく、自分で観て、自分の体験にしてほしい」【限定】
──監督の映画は、時に批評家の間で大きく評価が分かれます。『バードマン』では批評家そのものを物語の一部にもしましたよね。そして今回の『DIGGER/ディガー』も、すでに批評家から非常に異なる反応を受けています。キャリアの現在地から見て、批評とは映画の“外側”に存在するものだと思いますか? それとも、映画をめぐる対話の一部だと考えていますか?
映画というものは、人によってまったく異なる意味を持つものだと心から思っています。
まさに同じ『DIGGER/ディガー』という映画について、ソーシャルメディアでは非常に興味深い議論が起きています。ある人は「傑作だ」と言い、ある人は「完全な失敗作だ」と言う。同じ一本の映画なのに、そこには2つの現実が存在するわけです。
それが今、私たちが生きている世界です。人は、自分が見たいものを見る。あるいは、自分に見ることのできるものを見る。
私は人生で一度も、公開初週末の興行収入のために映画を作ったことはありません。そんなことを考えたこともない。それから批評家や、いわゆる“良識”や“趣味”の門番たちが何を言うかも考えたことはありません。どうでもいいんです。最終的に重要なのは、人々と時間だけです。
映画は残ります。あなたも私もいつか死ぬ。でも映画は残る。それだけが、本当に重要なことです。

映画が何らかの会話を引き起こすのであれば、それでいい。当然ながら、すべての人のための映画なんて存在しません。この映画は残ると思っています。そして時間を経た先にあるものこそが、本当の評価になる。それが私にはすごく面白いんです。
この映画を作れたことを、これ以上ないほど誇りに思っています。お金が、アーティストが映画を作るうえでの尺度になってはいけない。レビューも尺度になってはいけない。私たちは、自分が作る必要があると信じるものを作るべきなんです。
──特に若い世代では、映画を見る前に「その映画が良いのかどうか」を知りたがる傾向があるように感じます。人々は、未知のものに賭けることを以前より嫌がるようになっていると思いますか? また、何が起きるのか分からないまま映画を見ることをやめてしまったら、私たちは何を失うのでしょうか?
それは、この映画そのものが扱っていることでもあります。この映画は非常にメタ的なんです。
もう一度言いますが、人々がこの映画について読んできた“物語”は、この映画そのものではありません。それは誰か別の人から受け取ったナラティブです。でも、それは映画ではない。
映画の中でディガーが人々に語る物語も、現実そのものではありません。それは、“その現実について語られた物語”です。そして、そこには結果が伴います。
ですから質問への答えは、イエスです。映画をまだ見ていない人が、自分が一度も見たことがないもの、あるいは今後見ることすらないものについて、非常に強固で確信に満ちた意見を持っている。これは本当に驚くべきことだと思います。

私たちは、“現実そのもの”を共有する機会を失いつつある。その現実について誰かが何と言ったかではなく、誰かがどう説明したか、どんなレッテルを貼ったかでもなく、現実そのものをです。
もちろん、人それぞれの体験はすべて正当です。でも、まずは自分自身で体験しなければいけない。私はこの映画を、観客自身に体験してほしい。そして、その人自身の体験を持ってほしいんです。
何の情報も持たずに映画に身を委ねた人たちが、事前に聞いていたこととはまったく違う、非常に強烈な体験をしている。それを見るのはとても興味深いですし、とても満足しています。

























