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【構造・衣装・心情描写】『ラ・ラ・ランド』が私たちに見せてくれた、夢【徹底解説レビュー】

“夢をみていた”

チラシに書かれたこの一言が、この映画のすべてを語ってくれる。

アカデミー賞大本命と謳われている今作を私が見たのは、昨年の12月に行われたELLE CINEMA AWARDSでした。ちょうど、この物語がはじまる「冬」の季節ですね。

見終わると、試写にも関わらず映画の終盤私はハラハラと泣いてしまい(涙が止まらなくて)おめかしをしてきた故に大惨事になっていそうな顔を俯かせ、ある人を想いながら会場をソッと去って行きました。

今回はそんな超大作、『ラ・ラ・ランド』の魅力を徹底解説したいと思います。

この記事は、寄稿者の主観に基づくレビューです。必ずしも当メディアの見解・意見を代弁するものではありません。

この記事には、『ラ・ラ・ランド』のネタバレが含まれています。

古き良きハリウッド感ミーツ現代

今作の“違和感”とも感じ得る見所は、時代設定です。ミア(エマ・ストーン)がスマートフォンやノートパソコンを使っている事から、舞台は明らかに現代です。しかし、どこからも感じるこの“古き良きハリウッド感”

それは、登場人物が着ている色とりどりのドレス等のファッション、街並を飾るポスター、なにより今作におけるキーワード「ジャズ」が我々に50年代を感じさせる要素となっているからなのです。

50年代のファッションといえば、カラフルでカラーブロック。そしてジャズにとっては“黄金時代”とも呼ばれていた時です。ジャズピアニストであるセバスチャン(ライアン・ゴズリング)も、ケニー・クラークやマイルス・デイビスの崇拝者であり劇中に何度も彼の名前やジャズについて語っている事から、現代と50年代のリンクがより一層感じられます。

また、ミアがお気に入りのスタジオをセバスチャンと見てまわる際に見えるセットも、現代のCGIを多用する映画とは違い、明らかにペンキを手塗りしたようなもので、全てを手作りで作っていた時代のハリウッドを思わせますよね。この未来への希望と期待に満ち溢れた映画全体の“古き良きハリウッド感”が、現代のエネルギーに交わっている。そのミスマッチが面白いんです。

この新古の交わりは、今作において最も重要である音楽でも表現されています。

セバスチャンは古き良きジャズミュージックのファンであり、それに憧れるジャズピアニスト。彼はどうにかして、またこの現代にジャズを復活させたいと思っています。さて、彼が友人(キース/ジョン・レジェンド)のバンドに向かい入れてもらった時に初めて行ったジャズ調のセッションで、友人がMIDIパッドを使用するシーンがあります。これぞまさに、従来の音楽ミーツ現代サウンド。

セバスチャンはこれを「ありえない」と不機嫌に捉えますが、それに対し友人は逆に「お前のそういうところがめんどくさい、お前のようなやつがジャズを殺すんだ。過去にとらわれすぎている」という風に言い返します。

このやりとりは「あの頃は良かった……」と文句を言うだけの、現代に生きる懐古主義者に対して、この映画が「受け入れた上で前に進め」と革新していく事の重要性を伝えているようにも感じます。

ショットの構造から読み解く心情

ミュージカルであり、ドラマであり、ロマンス映画である今作はとにもかくにも技術も高く、魅力的なショットが多いです。そして、ロマンス映画において最も重要と言っても過言でないのが、登場人物の心情描写。

ここからは、ショットの構造からミアとセバスチャンの心情を探っていきたいと思います。

「A Lovely Night」が終わった直後のシーンで、セバスチャンはひとり自分の車に戻ります。

車に乗った時、カメラは助手席の奥から運転席に座るセバスチャンを捉えている。このぽっかりと空いた奥行きが、今まで誰か(ミア)と一緒にいたのに、別れて一人になって感じる空虚感を描いています。

そしてもう一つ注目したいのは、ミアが素晴らしい「Audition」を披露した後、「A Lovely Night」で共に踊った思い出の丘のベンチにセバスチャンと座ってこれからの事を話しているシークエンス。

将来の事を話し、オーディションの結果は出ていないのに、お互いがこれから物理的に大きく距離が離れる予感を察知しています。恋仲である以上に、お互いの将来を支え合ってきた二人は、改めて自身の夢に対して向き合うのです。

ミアが「初めてお昼にここにきたわ」と言って、二人して「最低な眺めだ」と笑いながら思い出の展望台を見上げる。この時、展望台を含めた周りの景色がミアとセバスチャンより圧倒的にスペースを占めていて、彼らは豆粒のような小ささで映っています。このショットから、これからお互いが向かう世界があまりにも大きく、彼らがちっぽけな存在であるという自覚と不安、そして期待を抱いている心情が読み取れます。

カラフルな衣装が意味するもの

今作の衣装を手がけたのは、これまでに数多くの名作でその才能を発揮してきたベテランの衣装デザイナーであるメアリー・ゾブレフ

赤、青、黄色とヴィヴィッドで華やかな衣装は、ただ綺麗なだけではなくてその色にも心情などを表す意味を秘めているのです。

注目したいのは、ミアとセスの服のカラーの変化

ミアは映画冒頭からブルーやカナリアイエローのドレスなど、基本的にカラフルな服を着ています。これは、彼女の周りに対して非常にオープンで快活だという人柄を表しているのです。

逆に、セスが着ていた服を思い出してください。ミアと再会を果たしたパーティで、彼が着ていたのは黒のタキシードに黒のタイ(演奏中は違いますよ)。周囲は男性でさえパープルのジャケットなど、黒い服を着ていない。劇中黒のタキシードを着ていた男性はいたものの、タイはカラフルなのです。

それなのに彼だけが黒という何にも染まらない色を着ていたのは、「自分はプロで、こんなパーティで軽く弾くようなアーティストではない。ここにいるべき人間ではないんだ」という周りに対する決別での意思、その空間に交わっていない事を意味しているように感じます。

しかし、ミアとダンスをして彼女に惹かれた彼が職場のカフェまで行ってデートに誘ったあの日から、彼は基本的にベージュやブラウンのセットアップを着るようになりました。

ベージュは何にでも合う包括的な色であり、それは彼が周りに対して(特にミアに対して)心を開いて交われるようになったという変化を表しています。

彼がバンドミュージシャンとして活動している時は、やはりあの黒のタキシード。彼にとっての本当の居場所は、ステージの上でもなくて、やはりミアの隣だということがわかりますね。

一方でミアにも服のカラーに変化があります。

基本的にいつもカラフルだったミアが、ラストシーンで旦那とセバスチャンの店にやってくる時、初めてブラックドレスを着ていました。そして席につき、舞台にいるセバスチャンと目が合う。

彼の着るブラウンのセットアップは、彼が従来の卑屈さを克服し、ミアなしでも人に心を開けるようになったことを象徴しています。一方、ブラックドレスを着るミアは、今の夫が自分にとって本当にしっくりくる相手ではないという事、本当の居場所は客席ではなくセスの横だという意味で、先述のセバスチャンと同じ心情で周りから孤立しているのです。

セバスチャンをおいて、前を見据え少し先に進むミア。少し後ろを振り返るようにしているセバスチャン。ミアは自分の将来と幸せを掴むために、武装するかのように黒を(劇中ではダークパープルですが)纏って過去と決別を図っています。しかし、後ろを振り返っている様子からもわかるように、懐古的なセバスチャンにとってミアはいつまでも心の中にいつづける存在で、決して“過去の人”などではないのです。あー、泣けてくる。

ミアと再会したセバスチャンの本心

さて、ここまでショット構造や衣装の色の意味合いについて話して来ましたが、ここからは仕草などの演技から徹底的にセバスチャンとミアの心情を探っていきたいと思います。

まず、ファーストインプレッションはお互い最悪でしたね。しかし、「A Lovely Night」でも「興味なし」なんて言い切っていたセバスチャンは、どうやらミアの事を最初から気になっていたようです。それは多分、ミアが自分にA Flock Of SeagullsのI Ranをリクエストするようなユーモアのある娘で、それが気に入ったからではないでしょうか。

ミアが歌に合わせて意味有りげに口パクをしていた部分の歌詞は「君のような女の子に出会うと思わなかった。その髪や瞳にうっとりさせられる。だけど僕は逃げてしまった」という具合です。なかなか挑戦的で、素敵な選曲ですよね。

だから、既に彼は彼女の事が少し気になっていて、自分の車は実はパーティ会場の目の前に停めてあったのに、一緒に探しにいくふりをして彼女と歩いていたのです。こういう男の人が隠す恋心って、当事者だと気づきにくいですが、こうして端から見るとなんだか素敵。

セバスチャンがもたらしたミアの変化

さて、先述の通りセバスチャンはミアに出会って変わっていくのですが、ミアもミアでセバスチャンによって変化が起きます。

そもそもミアは彼と出会った時、付き合って1カ月の彼氏がいました。セバスチャンと映画に行く約束をした夜、彼女は彼氏とのディナーの約束をすっかり忘れていたのです。

彼女を迎えにきた彼氏に渋々ついていきますが、ディナーの席で彼女は初めて自分がこんなに退屈な人たちと付き合っていた事に気づきます。セバスチャンといる時は、退屈なんて一切感じなかったのに。そう思い耽っている彼女の耳に聞こえたのは、店内に流れるピアノのBGM。ここに非常に深い意味があるのです。

映画のデートを約束した日、セバスチャンはジャズの魅力をわかってほしくてミアをジャズバーに連れて行きました。そこで彼女は「自分にとってジャズは人が話している背後に流れるBGMで、誰も聞いていないような音楽だと思っていた」と言い、それに対してセバスチャンは「それが問題なのだ」と嘆きます。

だからこそ、彼女にとってその時、“その誰も聞かないBGM”である音楽を自分の耳が捉えた事がとても重要だったのです。彼女はなんだか面白おかしくて、嬉しくて一人で笑ってしまいます。そして恋人に別れを告げ、小走りにセバスチャンの元へ走っていきます。

映画館に着いた頃には既に「理由なき反抗」が上映されていて、ミアはスクリーンの前に立ちセバスチャンの姿を探します。互いが、互いの求めていた相手だと確信した、あの映画館で顔をあわせた時の表情が、何よりも忘れ難いものです。

二人の間で音が止んだ時

セバスチャンがミアと母の電話越しの会話を聞いて、男としてしっかり愛する人のために定職に就こうとバンドメンバーに加入します。しかしそのバンドは突如人気となり、ツアーなども始まったせいでミアを孤独にしてしまいます。

余談ですが、夏の時二人でいたセバスチャンのベッドルームには、多くの写真などが飾られていました。しかし、ツアーが始まってミアが一人で寝ていた頃には、写真の数が減っています。さらに、ミアが実家に帰り、セバスチャンだけがベッドに寝転んでいた時は写真が一枚も飾られていませんでした。ここからも、二人の距離の変化が見受けられます。

さて、ミアがツアーによって寂しい思いをしていたある日、ついに彼らは口論になります。セバスチャンがサプライズで彼女の帰りを待っていたあの夜です。

ミアはとても嬉しくて、二人は久々のディナーを楽しみます。寂しかったのは彼女だけではなく、彼もまた彼女が恋しかったのです。だからこそ、朝6時に出なければいけないのにわざわざ会いに戻ってきてくれました。やっぱり一緒にいると落ち着くし、幸せを感じる。彼はそう思ったからこそ、つい「僕とツアーに着てくれ、君のやりたい事はどこでだってできるだろう」と言ってしまったのです。

ミアは彼が店を開く資金のために、一時的にバンドに加入していると信じていたため、今後もバンドを長期的に続ける気があるという彼に怒ります。怒った理由として、勿論これ以上寂しい思いをしたくないという気持ちもあったかもしれませんが、それ以前に彼女が「ジャズバーを開く」という彼の本当の夢を知っていたからでしょう。

この口論の際、ミアは一瞬たりともセバスチャンから視線をそらす事なく、まっすぐに見据えて話します。それに対し、セバスチャンの視線はずっと下向きです。ここから、彼が本当は彼女の言っていることが正しいとわかっている、後ろめたさと向き合えない弱さが読み取れます。

彼女からのそんな重圧に耐えられなかった彼は、相手の夢を冒涜するような言葉を弾みで言ってしまいます。その瞬間、ふたりの間に流れていたレコードの音楽が途絶える。常に音楽が流れていた二人の間に、初めて無音の時間ができた事が、二人の間にあったハーモニーが消えてしまった、という関係性の変化を暗示しています。

レコードの針を、誰かがもとの場所に戻さない限り、その場に再び音楽を取り戻す事はできないのです。

呼び起こされる、運命の人と結ばれなかった淡い記憶

私を含め、“例の8分間”で涙が止まらなかった方。それは、ミアとセバスチャンのような恋を経験した事がある方ではないでしょうか?

この映画がアカデミー大本命と謳われるまでに大ヒットした最大の勝因は、この誰しもが経験した事がある叶わなかった恋の物語にあるのです。

“例の8分間”はミアだけでなく、セバスチャンにとっても「あの時、こうしていたら、ああしていたら」という想いが込められています。

あの時間では、セバスチャンがミアに言った「君のやりたい事はどこでもできるじゃないか」という言葉がそのまま返されていて、彼がミアのためにパリについて行っていたら、というシナリオでした。そこには、パリに行ってもジャズピアニストとして活躍できた姿が描かれていましたね。そうしていれば、今頃ミアの横にいたのは彼だったはず。

ミアがセバスチャンのツアーについて行くことを拒否したのは、やはりその夢に対する情熱の強さ故でした。ミアはもともと「Someone In The Crowd」で歌っていたように、彼女は一人の誰かを見つけるより、自分が本当の自分になれる場所を探していたのです。しかし、夢を叶えて女性として成熟し、セバスチャンと再会を果たした彼女は、その「場所」とは「人」であった事を身を以て理解します。

趣味も合って、話も尽きない、一緒にいて幸せや居場所を感じる人生最愛の人がいる。しかしその人とは結ばれなかった。ミアがセバスチャンではなく、他の男性と結婚してしまったという事実は「なんで」と、我々の胸を裂く一方で、どこか身に覚えのある感覚を持たせ、“ある記憶”を呼び起こすかもしれません。

相手が自分にとって人生最愛の人だと思う気持ちは、相手にも伝わります。強い絆で結ばれているからこそ、相手が同じように感じればお互いわかるものです。そして、もし結婚しなかったという意味で結ばれなくとも、特別な気持ちは生涯互いに持ち続けていくでしょう。ミアとセバスチャンが交わした言葉の通りに。

必ずしも運命の相手や最愛の人と結ばれるとは限らない。そんな人生の甘美で切なさを、私たちにあの“夢の時間”と共に美しく描いた『ラ・ラ・ランド』。観終わった後、あなたは誰の事を想いますか?

Writer

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ANAIS

ライター/編集者/Ellegirlオフィシャルキュレーター、たまにモデル。ヌーヴェルヴァーグと恐竜をこよなく愛するナード系ハーフです。

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